絵描きの記

絵描き 出口アキオの絵画制作と日々考えたこと、見たことの記録です。

「小出楢重展」 ~京都国立近代美術館~

この人にあと20年、せめて10年の命があったらどんな作品を残していただろう。

また、その作品が後世の人にどんな影響を与えることになっただろうか…。

そんなことを夭折した作家の作品に接するたびに考えてしまう。

ラファエロ・サントス37歳、ピーター・ブリューゲル40歳(?)、

ヨハネス・フェルメール43歳、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ37歳、有元利夫38歳、

アメディオモディリアーニ36歳、小出楢重43歳、ジョン・レノン40歳…。

たまたまであるが、好きな夭折した芸術家をこうして思いつくままに挙げてみると、

30代後半から、40歳前半ばかりである。ちょうど今の自分の年齢にあてはまる。

改めて「俺は何をやってんのか?」と考えてしまうが…。

短い生涯でもその才能と技量によって、圧倒的な「質と量」を残したラファエロ

ブリューゲルは別格として、みんな長い苦闘やスランプの末、明るい展望が開けて

きたとたんに世を去っている。

ビートルズ解散後オノ・ヨーコの影響で平和・反戦活動をしたり、ハウスハズバンド

なんかをやっていたりしたジョン・レノンの70年代はどう考えてみても、

もがき苦しんでいたように見える。そして音楽活動を再開した直後の死…。

有元利夫電通を退社して、安井賞受賞後も順調に見えた創作活動の裏側で、

本人は長く苦しんでいたことが日記から窺える。

フェルメールにしても晩年はパターン化されて、「デルフト眺望」や「ミルクポット」の

ような冴えがなくなったというような解説を目にしたこともある。

芸術家だけでなく、誰でも人生において長い苦闘やスランプを乗り越えた末に、

新境地を見出すことが1回や2回はあるだろうが、彼らは新境地を見せぬまま、

あるいは新境地のほんのイントロ部分だけを残して逝ってしまったのだ。

ここにもし100年命があったら、10年づつ振り分けてあげたい。

50歳になったフェルメールジョン・レノンが、どんな作品を作っただろうか…。

考えてみても仕方がないことであるが、残念でならない。

そんな思いが小出楢重にもあてはまる。

東京美術学校を卒業後、画家が独自の作風を完成させるためには、

長い時間を要した。卒制の自画像から始まり、有名な「Nの家族」を描いた後も

風景、静物、花、家族や子供…様々なモチーフに挑んでいるが、

小出自信が確かな手ごたえを掴むには至っていなかったのではないだろうか…。

フランス滞在中の作品に精彩が欠けるのも小出のそんな焦りやイラつきがあった

のかもしれない。当時のフランス、特にパリへの渡航は美術を志す者にとって、

今よりはるかに憧れの的であった。小出も意気揚揚と出発したに違いない。

しかし、実際のパリの町は小出の創作意欲をかきたてるものではなかったようだ。

パリでは下宿やホテルの窓から街を見下ろした作品が多いが、

小出の「おもろない、退屈や…」と言う声が聞こえてきそうだ。

博物館や美術館にある作品には刺激を受けても、

その当時のパリにはまったく共感できなかったのかもしれない。

そして長い試行錯誤の末、ようやくたどり着いたのが、

晩年の裸婦のシリーズではないだろうか。

始めた当初こそ対象に対してのぎこちなさも感じるが、短期間にものすごい

スピードで頂点に登りつめてゆく。「前向きの裸女」、「支那寝台の裸女」などは、

卓越した描写力と色彩感覚が光る傑作だ。

日本の近代西洋画の中で、最も造形的に完成された裸婦像であると思う。

最晩年、アトリエ近所の芦屋浜風景を描いた作品は、この数年間、油画とガラス絵

による裸婦制作に全精力を注ぎ、納得のゆく仕事を完成させた画家の精神的な

充実感が感じられる。パリ滞在中の風景画とはまったく異なった気持ちのゆとりの

ようなものが適度に力が抜けた画面から伝わってくるのだ。

芦屋の風景画は先に述べた小出の新境地のイントロだったのかもしれないし、

大仕事をやってのけた後のブレイクだったかもしれない…。

いずれにしても、もうそれを知る由はないが…。

美術館のエントランスで上映されていた小出生前のホームムービーでは、子供と

一緒に雪合戦に興じたり、ボートの上ではしゃいだり、当時としてはハイカラな

西洋風スタイルで食事をしている姿など、家族と日常生活を楽しむ姿が窺える。

映像の中の画家は、自己の芸術を追及し、格闘し続けてきた芸術家というより、

どう見ても「大阪のキサンジなおっちゃん」である。

この時代、まだ西洋画技法が伝わってまだ60年そこそこ…。

西洋の近代美術に追いつけ追い越せという使命感がすべての画家の中にいまだ

大きく存在していたと思う。そんなプレッシャーのなかで仕事に取り組みながらも、

家族を愛し、人生を楽しみ、ユーモアを忘れなかった。

そんな愛すべき良き大阪人、小出楢重…。

やはり、あと10年生かせてほしかった…。