非常に重い内容のストーリーだが、緻密に計算されたと演出とカメラワーク、
溢れんばかりのビョークの才能が鑑賞後も深い余韻を残すミュージカル映画の
傑作だ。
いきなり真っ黒な画面で音楽のみが流れるオープニングから、ハンディカメラを
使った8ミリ映画のような日常的な映像が40分近く続く。
そして、ようやく始まるダンスシーンは最新デジタル技術による撮影と合成が施
されている。このプライベートフィルム風の映像とオールロケのリアルなダンス
シーンの対比は、ビョークが演じる主人公のセルマの悲劇的な人生と彼女の
妄想のなかで繰り広げられるミュージカルの対比、現実と非現実という対極の
位置付け以上に、観る者へ強烈な映像的インパクトを植え付ける。
ビョークのリアリティーで迫真の演技と楽曲と歌唱力の素晴らしさが、この映画の
完成度をぐいぐいとひきあげたことは確かだが、脇を固める俳優陣も素晴らしい。
カトリーヌ・ドヌーブは「シェルブールの雨傘」以来輝いて見えたし、
「グリーンマイル」でトム・ハンクスの心優しい同僚役だったデビッド・モースは、
最初こそ同じく心優しき隣人・警察官だったが、その後豹変してゆく表情は、
この映画の中で一番怖かった。
それとは逆に、冷酷な女看守と思いきや、セルマの心の痛みと恐怖を理解して、
人間的な優しさといたわりの心で接したショブハン・ファロンも素晴らしかった…。
映画全体を支配している60年代アメリカの片田舎のけだるい雰囲気は、
ハリウッド製の映画が描く「アメリカの自画像」とはどこか趣を異にすると
観ながら考えていたら、やはり監督のラース・フォン・トリアーはデンマーク人で、
デンマーク人のトリアーに、アイスランド人のビョーク、フランス人のドヌーブなど
異邦人である彼らが描いた「アメリカの肖像画」は、どこかぎこちなく、日常と
非日常の境を酩酊する感覚が画面から伝わってきて、恐怖を増長させる…。
また、トリアーがカフカの「アメリカ」が好きでこの映画のアイデアの背景にもあった
とパンフで読んだが、確かにこの作品の中でのトリアーの視点は、
暗黒のオープニングから、唐突に始まるリハーサルシーンに始まって、
セルマの苦難の連続はひとつのミュージカルの「役」を演じきるまでの女優の
「生みの苦しみ」にもとれる。
まさに彼女は立派にミュージカルのヒロインを演じ切るのだが、パンフにも書いて
あったように、オープニングとラストがぴったり合致することによって、初めてこの
作品のコンセプトが理解できる。
その理解ができた上で受ける印象は、恐怖であり、感激であり、悲壮感であったり
するのだが、僕はこの映画のオープニングとラストの相関関係から人間の
「輪廻転生」に似たものを感じた。
オープニングの闇とラストシーンがメビウスの輪のようにつながって、
いまだに頭の中でぐるぐる廻っているのだ。
僕の心の中でこの作品は、しばらくの間「輪廻転生」し続けそうだ。