カラヴァッジョが生きた16世紀の終わりから17世紀のはじめ、イタリアの多くの
都市がスペインに支配されていた。
反宗教改革の締め付けとあいまって、人々の気持ちの中には抑圧された鬱憤が
蓄積されていた。そのはけ口が暴力という形で日常的に蔓延していて、
カラヴァッジョの行動だけが特に異常であったわけではないそうだが、
やはり殺人を犯してしまっては話は別である。
さすがの教皇もかばい切れなかったのであろう。
しかし400年近くの歳月が経った現代、画家が犯した「殺人」もその数奇な運命を
象徴する「事件」、超人的創作活動における「反動」として捉えられている。
それにしても、ものすごいパワーである。短い活動期間での圧倒的な仕事量…。
ミケランジェロを見たときもそう思ったが、彼らの仕事の前には、現代作家の作品
のほとんどが頭でっかちで、ひ弱な存在に見えてしまう。
今回の展覧会で出品されているのは、そんなカラヴァッジョの仕事のごくごく一部
であるが、天才の仕事の片鱗は十分に感じ取ることができた。
作品から発せられる「聖と俗」は、画家の「天才の技」と「人間の衝動的な暴力性」
とあいまって、作品における光と影のコントラストのように明確に受けとめられる。
横尾忠則氏が対談で自身の仕事について、「ハイとローの落差が、いいのよ 」
と言っておられた。横尾氏はファインアートとコマーシャルアートを例にとって話して
いたが、カラヴァッジョの絵画についてもこの「ハイ&ロー」で例えられる。
「ハイ」=光=聖なるモノ(天上、善、キリスト教の教義、芸術性、画家の自分)
「ロー」=影=俗なるモノ(地上、悪、現実の社会、大衆性、画家以外の自分)
同じ空間(画面)に「ハイ&ロー」が共存する…カラバッジョの最大の魅力は、
これに尽きる。
卓越したリアリズム描写に光と影の演出をさらに加えたことにより、
「絵画」は「舞台」に変貌した。まさしく「絵画の劇的な革命」である。
光によって影の存在がよりリアルに再現される。その逆も同様である。
また、芸術はその世界の中に対極する二つの要素に支配されているほうが、
ひとつの要素に支配された場合より魅力的な場合が多い。
互いが主張しあうことにより、より互いを高め合う化学作用のような現象が起こる。
対極する要素は強力であればなおその作用も増大して、核爆発のようなすごい
パワーを生み出すことがある。
カラバッジョの「光(聖)と影(俗)」、レオナルド・ダ・ヴィンチの「芸術的冒険心と
科学的探求心」、ゴッホの「芸術家であるための純粋性と、同時に生活者としての
幸福を追求したいがために軋轢として生まれた狂気」…
これらの例に共通するのは、化学作用による爆発の時代が、極めて短い時間に
凝縮されていて、必ず「破綻」という結果で終わっているところだ。
レオナルドは「作品自体の放棄」、ゴッホは「自殺」、カラヴァッジョの場合「殺人と
逃亡の果ての死」という形で決着している。
その後、カラバッジョの追随者(カラバッジェスキ)たちによって、そのスタイルは
受け継がれたが、これほど絵画をドラマティックに変えてしまう画家は、
彼の先にも後に存在しない…。
本日の結論
「片鱗だけでなく、やっぱりローマに行って全貌を見たい!!」