絵描きの記

絵描き 出口アキオの絵画制作と日々考えたこと、見たことの記録です。

「真珠の耳飾りの少女」 ~シネ・リーブル池袋 1~

17世紀の画家フェルメールの描く「崇高なる光と影」、「静寂かつ雄弁な色彩」が

21世紀の現代の技術と感性によって見事に映像化された作品だ。

特に、アトリエの窓から差し込む光を受け、刻々とその表情を変える人物や

モチーフ、少女のターバンの色に代表される「ラピスラズリ」と呼ばれる光り輝く

ブルーの再現には、美術史も学んだピーター・ウェーバー監督は、ことのほか

神経を配っていたように見えた。

映画「アマデウス」の中でもモーツァルトが実父と妻が口論する部屋から離れて、

スッと一人きりになったかと思うと、おもむろにビリヤード台の玉をころがしながら

スコアを書き始める…。天才の創作現場のワンシーンを垣間見たように感じた。

ストーリーはフェルメールの代表作のひとつである「真珠の耳飾りの少女」をテー

マにした完全なフィクションだが、この作品でも芸術家をとりまくそんな「俗と聖」の

対比の描き分けがうまく表現されている。

当然舞台は、現代のように決して清潔で落ち着いた佇まいとはいえない喧騒とし

た17世紀オランダの町、デルフト…。

夫の仕事に理解のないヒステリックな妻、妻よりは審美眼があるものの、金のこと

しか考えていない妻の母、そこら中を走り回る6人の子供たち…。

屋敷でのフェルメールもきっと心が休まらなかったのではなかったと思うが、

一歩アトリエに入ると、そこにはフェルメール絵画そのものが再現されているよう

な静寂かつ神聖な創作の空間が広がっている。

騒々しい日常的生活を離れて、自己の芸術世界に身を置く画家の聖域へ足を踏

み入れることにより、最初は戸惑いながらも次第に作品に関心と理解を示したヒロ

インの少女グリートと、彼女から芸術的インスピレーションを受け、新たな作品に

取り掛かるフェルメール…二人の関係が「主人と奉公人の情事」と「創作者とそれ

を理解する者のひたむきな情熱と集中力」の間をギリギリの線で彷徨し、ある意味

性的な絶頂にも例えられるような「名作」の完成へと昇華してゆく…。

その課程は濃厚かつ貴賓あるエロスとスリルを存分に感じさせてくれた。

この物語とは別として…

実際のフェルメールの生活環境がどのようなものだったかは、想像の粋を越えな

いが、フェルメールの死後、妻は夫の作品の散逸を防ぐためにかなりの努力をは

らったようなので、映画の中ほど夫の芸術に無理解ではなかったように思える。

また、生活にやや疲れ、神経質で自分の世界に引きこもっているように描かれて

いるフェルメール自身も、デルフトの画家組合の役員をやっていたりした記録もあ

るので、日常生活ではもう少し社交性のあるオランダ市民ではなかっただろうか。

映画では決して「居心地のいい家庭」としては描かれていなかったが、夫婦の間に

通い合う絆や家庭環境が精神的に豊かでなかったら、短い生涯で結果として合計

11人もの子沢山にはならなかったであろう。

芸術家としてこだわりと探究心を抱きながら、自らの仕事を成し遂げただけではな

く、経済的には困窮し、時には女房や義母、子供に手を焼きながらも、一生活者と

しても幸せであったのではないか…。

僕はフェルメールの作品を見るたびにいつもそう思うのだ。

それにしても、実物の「真珠の耳飾りの少女」 にまた無性に会いたくなった。