10代のピカソの作品を集めた展覧会。
それにしても凄まじく早熟である。
12才で描いた石膏デッサンは、石膏の質感まで見事に描き分けている。
これって砂糖と塩を描き分けるくらい難しい技術だと思うのだが…。
圧巻は画家でもあった父(幼いピカソの絵を見てその才能に驚愕し、
自分の画材一式を与えたという有名なエピソードの本人)を描いたデッサンだ。
同じ家族でも、毋や妹を描いた作品は、ピカソの肉親への思いが多少感じられる。
しかし父の肖像は、そういったノスタルジックなものを一切省き、冷酷に対象として
観察している。ある意味、石膏象以上に「モノ」として客観視しているように思えた。
これは会場での解説でも書いてあったのだが、父と息子の人間的な距離のせいか
もしれない。父は最も身近で息子の才能を理解した人物である。
マドリードの美術学校に入れ、画家として生きる術をなんとか身につけてやりたい
という親心の反面、芸術家としてのジェラシーがわずかながら残っていたのか…。
方や息子は父の影響下からなんとか抜け出したい。
父の指導のもと、デッサンや解剖学を極め、聖書や歴史をテーマにしたタブローも
完成させた。この時点でもわずか14才。マドリードの美術学校へ入学したものの、
授業には出ず、プラドで模写やデッサンを行っていた。そりゃあ14才でこれだけの
実力があれば、美術学校での授業はアホらしいであろう。
そして僕は「ピカソがピカソになった」のは、思春期を経て性的な目覚めや体験の
前後であると考える。それまで聖書や歴史をテーマとしてアカデミックな習作に明
け暮れていたピカソがバルセロナからマドリードに出るや、売春婦などを対象に
あからさまな性描写をテーマとした作品に転ずる。
父の教えや厳格なカトリック信仰、アカデミズム等から一気に解放された…という
より自分の力でそういったしがらみを突き抜けた瞬間、若きピカソは「神童」から、
「天才」になった。まさに「ピカソ」が誕生した…。
女性や男性の局部や性行為の描写は、一見よくある落書きともとれるかもしれな
いが、こういった作品が、アカデミズムを極めた修行時代とその後の「青の時代」
の間にあることが興味深い。
誰でもこの年頃は、もうそいったことだけで頭がいっぱいで、「寝ても覚めても○○
○○のことばかり…」なのだ。しかし、幼いころは「神童」と呼ばれていた人でも、
この「寝ても覚めても○○○○…」の時代が過ぎたら、まったく「ただの人」になって
いた…のが普通なのである。ピカソは90を過ぎて死ぬまでず~っと「寝ても覚めて
も○○○○…」だったのは、唯々敬服するばかりである。
ピカソ風春画ともとれるそれらの作品群の前に立った時、多くの観客は「あららっ、
ピカソどうしちゃったのかしら…」一瞬戸惑ったような、ちょっと引いてしまっていた
ように見て取れたが、僕は「あっ!これでピカソがピカソになった」と思った。
そして、20世紀最大の巨匠に対し少しばかり親しみが増した。
確かに女性遍歴を重ねることによって、創作力を高めていった作家は多いと思う
が、ピカソの場合、そんなかっこいいロマンティックなものではない。
「性=芸術=人生=苦しみ」…彼にとって創作するための苦しみの輪廻みたいな
ものが常に生きていく上であったと思う。それが作品に反映され、生涯スタイルを
変えながらくり返される…。
僕は「青の時代」だけでなく、全ての時代を通してピカソの作品から「人生の喜び」
より「人生の苦しみ」を感じる。性衝動だけでなく、創作活動を含めたその生涯は、
「あえて困難や揉めごとに積極的に関わり、時には自ら泥沼に足を浸けに行く…」
ようなものではなかったかだろうか。作風の変遷は決して「計算」ではなく、
あくまでも「衝動にかられた結果」だと思う。また、それによってもたらされた成功は
計り知れないものだったが、同時に成功と引き換えに課された代償も大きかった。
ピカソの作品からは芸術家としての成功と代償を同時に感じ取れる。
そのあたりが「芸術は安楽椅子のようなもの…」と語ったマチスやミロより興味を
そそられるし、僕にとって芸術家としてよりシリアスで深いメッセージを与えてくれる
ピカソの最大の魅力のような気がする。
まさに天才ピカソが生み出される「その瞬間」を垣間見たような展覧会だった。